市会議員・黒田みち「私のあゆみ」


by 6570295
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

<   2011年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

第14回

第1章あんたはうちの子やない

<14>先生の一言が転機に


 高浪先生に叱られた・・・この事件は私を成長させる大きな契機になりました。

 その後・・・児童会で発言できるようになり
 学級委員などの役を積極的に引き受ける生徒へ・・・
 中学1年生では自分から生徒会に立候補するまでに変わりました。

 振り返ってみると・・・
 小学校低学年では、おとなしく、いじいじしていた子。
 4年生ぐらいから少しづつ変わり・・・
 5年生のこの事件で、「責任」の意味とか重さとか自分の果たす役割とかを考えるようになり、前向きに大きく変わっていきます。

 生活が落ち着いてきたということも大きな要因だったでしょう。

 そして、高浪先生の一言が、生き方の転機をもたらしてくれたのです。

 高浪先生は、体育系の文字通りの熱血先生でした。
 学級委員選挙で立候補がない時などは、「立候補するやつはおらんのか」「学級委員の立候補もいないようなクラスのおまえらは」「先生は悲しい」と言って、全員を並べ・・・びんたをする。
 そういう高揚したクラスでした。

 休みの日でも学校に遊びに行くし、先生と旅行をしたり、まさにテレビの学園ドラマのような感じでした。
 高浪先生は、4年生から6年生の3年間、担任。

 卒業の時の通知表の記入欄に、「牛歩でもいいからしっかりすすみなさい」という言葉をもらいました。
 責任を果たすことの大切さと共に、自分のペースでいいんや・・・あせるな。着実に進んで行きなさい。という先生の一言は、わたしにとって宝物でした。

 卒業式の日、
 誰も居なくなった教室で・・・
 先生が一人泣いていた・・・そのことは後になって聞きました。

 私が保育士になって
 修了式の後も保育所に来るこども達
 修了する最後のこどもを見送った後
 泣く・・・

 最後の最後
 無事修了して
 保育所の門を出ていく姿
 
 ホッとして

 おめでとう

 ご苦労さま

 ありがとう

 いろいろな想いがあふれかえる瞬間

 高浪先生もこんなだったのだろうか・・・

 そして・・・責任という2文字
 
 
[PR]
by 6570295 | 2011-09-27 22:22 | 私のあゆみ

第13回

第1章あんたはうちの子やない

<13>クラスの意見を言えず・・・


 現実とは・・・こういうもの・・・
 ルール作りの提案に対する意見をクラスごとにまとめ、学級委員長が児童会に意見を持っていくことになりました。
 私のクラスも学級会(ホームルーム)で意見を出し合いました。
 
 それを受けて、私は、児童会に参加。
 はじめての児童会・・・
 私は、その場でクラスの意見を一言も言えなかったのです。

 クラスに帰って、「クラスの意見を言うことが出来ませんでした・・・」と報告しましたが、友だちからは格段の抗議はなかったと思います。
 
 ところが放課後・・・
 高浪先生から
 「おまえは学級委員の役割を果たしてこなかった」と強い言葉でしかられたのです。
 これには、すごくショックをうけました。
 もともと自分から進んで委員長になったのではない・・・ならされたんや、との思いがあったからかもわかりません。
 しかし・・・その弁明もできず・・・
 責任を果たせなかったことを責められ、泣きながら家に帰ったのを覚えています。

 このことは、後々・・・私の大きな転機となります。
 私自身の責任を追及された人生はじめての経験・・・

 なんで・・・
 どうして・・・
 悔しい
 情けない
 
 自分の力の無さを自覚させられた大きな事件・・・。
 自分の「責任」を突きつけられた出来事でした。
 
 
[PR]
by 6570295 | 2011-09-18 11:26 | 私のあゆみ

第12回

第1章あんたはうちの子やない

<12>学級委員長にさせられて・・・
  

 小学校3年生の時の担任、前田先生もとっても良い先生でしたが、4年生から6年生の3年間、担任して下さった高浪先生は、その後の私の人生に大きな影響を与える存在でした。

 長崎県五島列島から体育大学を卒業したばかりの超熱血先生で、私たちが先生の最初の教え子でした。

 その頃のクラスは勉強も良くでき体も大きい子が学級委員長をする・・・その子達が、いい意味でクラスをおさめていました。
 そういうグループにわたしは、チョコンとくっついていました。

 当時、私は岩本姓(ずっとですが・・・)で、「もっち」と言われていました。

 5年生の時に突然、リーダーである学級委員長から「次はもっちを学級委員長にすることで話がついた」と宣告され
 なんと選挙の結果・・・
 予告通り学級委員長に選ばれてしまいました。

 人前で話すことなど全く経験せず・・・出来なかった私が、本当に成り行きで学級委員長にさせられてしまったのです。

 青天のへきれき・・・大きくなってから知った言葉ですが、本当にこの言葉がぴったりの出来事が我が身に降りかかってきたのです。

 その頃、給食を食べ終わった後の休憩時間に、競って運動場のドッチボールコートを取りに行くのが一種の流行りでした。
 これがどんどんエスカレートして、給食をすごく早食いをするので、体に良くないとか・・・同じクラスがいつもコートを取っている・・・などが話題となり、児童会で「ドッチボールコート利用のルールをつくるべき」との提案が学級会で出されました。

 突然、なってしまった学級委員長・・・

 クラスの意見を聞いて
 まとめて・・・
 児童会へ持っていき発表する

 それこそ
 青天のへきれき・・・そのものです

 何でやねん!・・・今なら言えますが
 その頃の私は
 否定も肯定もできず
 一番中途半ぱな状態でその児童会当日を迎えることとなりました。

 テレビやマンガなら何か起こるのでしょうが・・・

 神様が降りてきて・・・助けてくれる訳もなく
 誰かが口添えをしてくれる訳でもなく・・・

 厳しい現実

 当たり前のように、時間が刻々と迫ってきたのです。
 まさに
 最悪・・・の幕開け
 
 一生の内にこれほど
 青天のへきれきを経験したのはこれが最後ではないでしょうか・・・。
 
[PR]
by 6570295 | 2011-09-12 22:00 | 私のあゆみ

第11回

第1章あんたはうちの子やない

<11>養子話に泣いて抵抗


 父の工場が倒産し、経済的事情が悪化したからだと思います・・・
 生活が少し安定してきた頃(中学校2年生)に養子にいく話が持ち上がりました。

 こどもが居ない遠い親戚のところへ養子に行けば、そこから高校~大学まで行かせてもらえるかもしれん。どうや?と切り出されたのです。

 小学生の頃は、学年を終えるごとに、実の母が迎えに来てくれるかもしれないと思い続け、小学校卒業時に、いよいよ迎えには来ないと悟り、ここ守口で生活していくのだと思い始めた矢先のことでした。

 突如持ち出された養子縁組の話でしたが、この時ばかりは、絶対泣かなかった私もはじめて「棄ててくれるな」と泣きました・・・
 「よその家にやらんといて。何でもいいからここにおいて」と。

 夏休みにその家に遊びに行かされていました。

 また、母と二人きりで近鉄特急に乗り・・・はじめての家。静かなおじさんとおばさん。
 2週間程過ごしたでしょうか・・・何をすることもなく・・・毎日ひとりでほとんどの時間を吉野川で過ごしました。
 まっ黒に日焼け・・・帰りはひとりで帰路に着きました。

 それからしばらくたった頃でしょうか・・・
 「養子縁組」聞きなれない言葉
 でも・・・すごく悲しい気持ちになったのです。
 それまでの人生で一番悲しかったのはこの時・・・
 今でも思い出すと涙が出ます。

 少し物事がわかりはじめ
 「ひとりで生きていく」と決意をした幼なかった時代が終わり
 「もらわれっ子」に馴れてきた・・・そんな矢先
 また
 「すてられっ子」になっていく悲しさ
 形振りかまわず泣いて訴えたのはこの時が最初で最後
 
 以後、養子の話は立ち消えになり・・・

 また・・・少し大人に近づいていくこととなります。

 ひとりで生きていく・・・簡単でないこの荒波は容赦なく襲いかかり浪間に沈めようとしてきます。
 漂うことを知らない不器用な私は、バタバタともがき・・・
 
 小さな海岸に漂流したかと思えば
 また沖合に投げ出される

 その海で
 その砂浜で
 生きていくことを探しはじめます

 14歳
 目一杯背伸びをしながら・・・
[PR]
by 6570295 | 2011-09-05 15:45 | 私のあゆみ