市会議員・黒田みち「私のあゆみ」


by 6570295
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
第1章あんたはうちの子やない

<19>卒業直後からバイト三昧


 なぜ、それほどまで市立高校入学に固執したのか。家庭の経済事情を考えなかったのか。単に「電車に乗ること」にあこがれただけなのか。いまでも分からないのですが、最後は担任の「お母さん、行かしてもいいんじゃないですか」のアドバイスと父親の「行かしたれ」のひと言で、希望通りの高校に入学することができました。

 いままでとはまったく違う世界。
 こどもから大人へ、自分で考え責任をもって行動する・・・。本当は家族にも周りの人にも甘えているんだけれど、その自覚はなく、主観的には立派に自立し、必死で自分の道を歩みはじめた、そんな高校生活のスタートでした。
 どんどん世界が広がっていくことは、夢や希望でありましたが、一方で厳しい現実を知ることにもなります。

 家の経済事情はよく知っていたため、「家に甘えるわけにはいかない、お金を稼がねば」と中学校の卒業式の直後からバイトを始めました。
 高校の授業料や交通費は親が払ってくれましたが、それ以外のお小遣いなどは自分で稼ぐのが当たり前。春のバイトで1学期を、夏のバイトで2学期を過ごす、といったサイクルでした。
 それからずっと働きづめ(^―^;)ですね。

 中学3年生卒業後の春休みと言えば15歳ですが、スーパーの中に出店している宝石屋さんに雇ってもらいました。
 その当時、お買い物といえば、守口の自宅近くの千林。そこでアルバイトの募集案内を見つけ、すぐに「雇ってください。」とかけ込みました。すぐに雇われ、人生初めての労働がはじまりました。
 数日、千林店で営業の手伝いをし、また、違う店舗へ移動していく。「初めての経験」の連続でした。家から1時間以上かかる兵庫県の伊丹店まで電車で“通勤”したこともありました。
 まさに、怖いもの知らず・・・の典型ですね。

 高校の入学式までの数週間。安い服地を買って自分で縫ったワンピースを着て、「とてもこどもには見えない」おしゃれな格好で宝石の販売のバイトにいそしんだのです。
 うんと大人びた私の活動のはじまり・・・それと同時に、絵に描いたような高校生としての青春・・・私の活動が広がっていきました。

第1章 完
[PR]
# by 6570295 | 2011-12-04 09:40 | 私のあゆみ

第18回

第1章あんたはうちの子やない

(おわび・・・と再開のお知らせ)

 1週間に1度掲載のこの「私のあゆみ」。
 「楽しみにしているのに・・・」とお声をかけていただいて、本当にありがとうございます。しばらく中断し申し訳けありませんでした。
 先行して原稿を温めていたころは、よかったのですが・・・。議会活動に加え、無謀にもハードスケジュールの「憲法ミュージカル」に出演し(^―^)♪、地域の様々な活動が怒涛のように押し寄せ、結局1日24時間では追いつかず、今日に至りました。
 本当、すみません。

 ご迷惑をおかけしましたが、おかげさまで、この5ヶ月の経験によってさらなる進化をとげ、バージョンアップして活動をさせていただいています。
 引き続き、ご覧くださいますようよろしくお願いします。

       色とりどりの街路樹を愛(め)でながらの日々に寄せて・・・



          <18>進学で戸籍問題が浮上

 中学校3年生に進級し、合唱団は続けていたものの高校進学問題に比重が移っていきます。
 家計に余裕があるわけではなく、進学に伴うお金の悩みが大きかったような気がします。

一番安くつくのは、長兄も卒業した近くの府立守口高校への進学で、母もそれを薦めました。
しかし、私は電車に乗って通学したい一心で、京阪電車光善寺にある大阪市立「大阪市立高校」にこだわり、行かせてくれと頼み込み、最後まで自分の意志を曲げませんでした。

母は、「そんなお金は、ない。」の一点ばりでしたが、結局、私は主張を貫き(担任の先生の後押しもあって)母も折れてくれ、市立高校へと進みました。
なぜ、そこまでその学校にこだわったのか、今となっては判然としないのですが、その「市立高校」入学が私の人生に大きな影響を及ぼすこととなります。

 高校進学の際、今までの義務教育では、問題にならなかった新たな問題に直面します。私は、親権を生母が持ったまま、養子縁組もせず、高校進学をむかえました。
幼稚園の時は西本美智で、小学校入学と共に生母の元へ帰されて岩本姓に変わりました。小学校2年生の夏休みに西本家に戻されますが、その時は手続きをしないまま過ごしていました。
こうした戸籍・親権が進学に際して問題化。父などが走り回っていたことが印象に残っています。こどもから大人への多感な時期を「制度」の落とし穴で過ごすこととなります。

 岩本姓なのに、保護者名は「西本」と書かねばならず、それがいやでいやでたまりませんでした。小学校の頃は、「(西本の)家の子と違うねん・・・。」と素直に言えたりしていましたが、ちょっと物事が分かってきて、「恥ずかしい」とか、「何でやねん。なんでこんな思いをせんとかんねん。」との思いが募っていきました。
 いろんな本を乱読していた頃、住井すゑ著「橋のない川」で知った部落問題と私の境遇が重なり、「私のせいと違うやんか」と怒りや憤りのようなものがこみ上げたものでした。
[PR]
# by 6570295 | 2011-11-20 10:04 | 私のあゆみ

第17回

第1章あんたはうちの子やない

  <17>これぞ青春の合唱団


 中学2年生の途中、音楽の高野先生が守口市青少年合唱団(中学生から25歳までの混声合唱団)の指揮者をされていて、団員募集で中学生にも声をかけておられました。
私も友達や先生の誘いに応じて入団し、毎週土曜日の夜の練習に顔を出すこととなりました。

 指揮者の高野先生は、合唱団に情熱を傾けておられました。
 ただ歌うだけでなく、技術的にも芸術的にも課題が与えられる・・・中学生には中々想像しにくい・・・「歌詞の意味を言え」と言って、言うまで許してもらえない。
歌詞に赤が出てくると、「どんな赤なのか」を問われる。「え、赤は赤や」としか思えませんが、「赤でもいろいろあるやろ・・・この詩の赤は、どんな赤か?夕日の赤か金魚かリンゴの赤か・・・」そして詩そのもののイメージを想像させて、今度は、歌うという実際でそのことを求められました。
 中1から25歳までの、50人を超える集団で、その人たちの話しを聞き、議論する。そして歌う・・・イメージできても表現できなければ「歌に感情がこもっていない」と指摘される。
 毎週の合唱団練習のほかに毎年定期演奏会のための2拍3日の合宿もありました。
 春や秋の行楽シーズンにはみんなで遊びにも行く。
 何より、合唱だけではなく、学生も働いている人もいるわけですから、それぞれの立場でみんなが「人生」を歩んでいる・・・それぞれが真正面からぶつかり合って生き生きしている・・・「これぞ青春」の趣でした。

 当時の団員さんで、会社をやめて後に音楽の先生などをされている方が何人もおられます。今もなお「演奏会」をされたり、歌っておられる方もたくさんおられます。
合唱団の影響を大きく受けて人生を切り開いていった人たち・・・ 私にとっても、何かを求め、いろんな本を読みあさっていた時期と重なって、中2の14歳の少女のレベルをはるかに超える、とてつもなく大きな人生勉強をする場でした。
また、団では、自分の生い立ちなどをさらけ出して話すことができる、相談できる人が何人もいて、その面でも、丸ごと支えてもらっていました。
[PR]
# by 6570295 | 2011-10-15 19:20 | 私のあゆみ

第16回

第1章あんたはうちの子やない

<16>外では快活だが・


 中学生から積極的に行動する生徒になっていきますが、入学当初のころはまだまだ家庭の事情を引きずっていました。
 外ではとても元気な子。クラスのリーダー的存在だったし、生徒会の役員もこなし、熱心なテニス部員。頼まれたら吹奏楽(クラリネット)もやり、土曜日、日曜日も学校に行く。
友達関係に恵まれ、明るく楽しい、快活な生徒でした。
しかし、それは家には帰りたくないことの裏返しでもあったと思います。

 学校でも読書好きでしたが、家では、本当に本ばっかり読んでいました。
学校の図書室もよく利用し、市の図書館には、宿題をしに行くことも含めてよく通っていました。
   
 アイザック・アシモフなどのSF物が好きでしたが、島崎藤村から平岩弓枝まで色んな本を読みあさるという感じでした。題名を見て選び、熟読というよりまさに乱読。「黄色い星のこども達」は、宇宙物かと思って借りたら「ナチスドイツの話しだった」という出会いの本もありました。
 どちらかというと明るい本というより、藤村の「破戒」や夏目漱石の「こころ」など重たい本が好きでしたね。自分の生い立ちのこともあるでしょうが、「なぜ、生まれたのか」「生きるということ」など自問自答をくり返していました。

 小学校の図書室の鍵のかかった本棚に、住井すゑの「橋のない川」が並んでいました。
自分の手の届かない場所の本・・・あこがれ、いつか読みたいと思っていた本との出会い。読む本もどんどん大人びていきます。
中学校に入ってからは、より、あまり知らなかった世界へ目を向けることになります。
「橋のない川」で、部落を知り、「黒い雨」で戦争や原爆などを知る。「なぜ、同じ人間なのに、差が生まれるのだろう」「正義の戦争ってあるのだろうか」「幸せになること」・・・。学校の先生からの影響を大きく受ける多感な時期。
 ストンと胸に入ってくることばや理屈。
 人間には、個人や家族くらいでは、どうしょうもできないことがあること。
 社会の矛盾、法律によって左右される「不幸」
 困難な状況は「不幸」ではない・・・しかし困難が続いていくと「不幸」の迷路に迷いこんでいくこと。
 それでも人間は生きていく・・・「幸せ」や「安心」を求めて。
 表現することの必要性なども感じていった時期でした。

 9つ離れた兄は家を出て自立し、6つ上の兄には数学や物理など教えてもらったりしていました。姉との関係は、いじめられたりすることもなくなったものの、なんとなく疎遠になっていました。
 それぞれの青春、新しい世界での活動の範囲が広がっていったからでしょう。
[PR]
# by 6570295 | 2011-10-11 19:08 | 私のあゆみ

第15回

第1章あんたはうちの子やない

<15>時々の出会いで成長


 高浪先生には
 クラスみんなが
 ほめてもらったり
 怒られたり
 時には叩かれたり・・・

 卒業式を終えて、みんなが帰った後の教室
 誰も居なくなった部屋で
 ひとり泣いていた・・・という話を聞き、とても感動しました。

 先生とは卒業後もしばらく友だち有志と旅行をしたりもしていました。

 が・・・やがて、疎遠になってしまいました。
 (それぞれの時間をめいっぱい使っていた・・・時代でした)
 
 でも、忘れたことはなかったですね。
 3年間も同じメンバーで担任だった・・・
 こどもから少し大人に・・・
 小学校の卒業式は
 まさに大人への入り口を通過
 新しい中学校への旅立ち

 高浪先生は、残念ながら、若くして59歳で亡くなられました。
 小・中学校の同級生同士が結婚した際、仲人が先生だったそうです。
 その友だちから先生が亡くなった旨の連絡をいただきました。
 残念でした・・・
 いつかお会いしたら
 「こんなに大きくなりました。
 作文で書いていたとおり保育所で働いています。」と
 本当に感謝の意を込めてお礼ができたのに・・・

 熱血先生の教師振りは、私が後に就いた保育士の仕事ぶりに大きく影響を与えます。
 これまた早く亡くなった父親の働きぶりも「同じだなぁ・・・」と思います。

 このように、私は、時々の近所の方達、お世話になった先生などの影響を大きく受け
 小学低学年と高学年、中学生の3つの段階で、どんどん性格が変わっていきます。
 もしかしたら・・・持って生まれたものかもわかりません。

 ただ、はっきり言えるのは
 こどもは
 周りの環境にうんと左右される・・・ということ
 全身全霊ですべてを受け入れていくということ
 大人に委ねざるを得ない・・・という立場です
 
 大人になって
 昔の友だちと会った時
 小学校時代しか知らない友だちからは「あんたがそんなにしゃべるなんて」とびっくりされ
 中学時代の友だちからは「ぜんぜん変わっていない」と言われます。

 もちろん、高校時代の友達は、「そのままやね」と・・・。
 
 たくさんの方に影響を受け
 支えてもらい
 自分らしく成長していく道を模索

 牛歩でもいい
 歩いていくんだよ

 自分でいい
 自分がいい

 中々そこには辿りつけなかったけれど
 ようやくそこに着地

 生きているだけで丸儲け

 命がある
 ただそのことがすばらしい

 そこにあるのは「感謝」そのものである
[PR]
# by 6570295 | 2011-10-03 21:44 | 私のあゆみ

第14回

第1章あんたはうちの子やない

<14>先生の一言が転機に


 高浪先生に叱られた・・・この事件は私を成長させる大きな契機になりました。

 その後・・・児童会で発言できるようになり
 学級委員などの役を積極的に引き受ける生徒へ・・・
 中学1年生では自分から生徒会に立候補するまでに変わりました。

 振り返ってみると・・・
 小学校低学年では、おとなしく、いじいじしていた子。
 4年生ぐらいから少しづつ変わり・・・
 5年生のこの事件で、「責任」の意味とか重さとか自分の果たす役割とかを考えるようになり、前向きに大きく変わっていきます。

 生活が落ち着いてきたということも大きな要因だったでしょう。

 そして、高浪先生の一言が、生き方の転機をもたらしてくれたのです。

 高浪先生は、体育系の文字通りの熱血先生でした。
 学級委員選挙で立候補がない時などは、「立候補するやつはおらんのか」「学級委員の立候補もいないようなクラスのおまえらは」「先生は悲しい」と言って、全員を並べ・・・びんたをする。
 そういう高揚したクラスでした。

 休みの日でも学校に遊びに行くし、先生と旅行をしたり、まさにテレビの学園ドラマのような感じでした。
 高浪先生は、4年生から6年生の3年間、担任。

 卒業の時の通知表の記入欄に、「牛歩でもいいからしっかりすすみなさい」という言葉をもらいました。
 責任を果たすことの大切さと共に、自分のペースでいいんや・・・あせるな。着実に進んで行きなさい。という先生の一言は、わたしにとって宝物でした。

 卒業式の日、
 誰も居なくなった教室で・・・
 先生が一人泣いていた・・・そのことは後になって聞きました。

 私が保育士になって
 修了式の後も保育所に来るこども達
 修了する最後のこどもを見送った後
 泣く・・・

 最後の最後
 無事修了して
 保育所の門を出ていく姿
 
 ホッとして

 おめでとう

 ご苦労さま

 ありがとう

 いろいろな想いがあふれかえる瞬間

 高浪先生もこんなだったのだろうか・・・

 そして・・・責任という2文字
 
 
[PR]
# by 6570295 | 2011-09-27 22:22 | 私のあゆみ

第13回

第1章あんたはうちの子やない

<13>クラスの意見を言えず・・・


 現実とは・・・こういうもの・・・
 ルール作りの提案に対する意見をクラスごとにまとめ、学級委員長が児童会に意見を持っていくことになりました。
 私のクラスも学級会(ホームルーム)で意見を出し合いました。
 
 それを受けて、私は、児童会に参加。
 はじめての児童会・・・
 私は、その場でクラスの意見を一言も言えなかったのです。

 クラスに帰って、「クラスの意見を言うことが出来ませんでした・・・」と報告しましたが、友だちからは格段の抗議はなかったと思います。
 
 ところが放課後・・・
 高浪先生から
 「おまえは学級委員の役割を果たしてこなかった」と強い言葉でしかられたのです。
 これには、すごくショックをうけました。
 もともと自分から進んで委員長になったのではない・・・ならされたんや、との思いがあったからかもわかりません。
 しかし・・・その弁明もできず・・・
 責任を果たせなかったことを責められ、泣きながら家に帰ったのを覚えています。

 このことは、後々・・・私の大きな転機となります。
 私自身の責任を追及された人生はじめての経験・・・

 なんで・・・
 どうして・・・
 悔しい
 情けない
 
 自分の力の無さを自覚させられた大きな事件・・・。
 自分の「責任」を突きつけられた出来事でした。
 
 
[PR]
# by 6570295 | 2011-09-18 11:26 | 私のあゆみ

第12回

第1章あんたはうちの子やない

<12>学級委員長にさせられて・・・
  

 小学校3年生の時の担任、前田先生もとっても良い先生でしたが、4年生から6年生の3年間、担任して下さった高浪先生は、その後の私の人生に大きな影響を与える存在でした。

 長崎県五島列島から体育大学を卒業したばかりの超熱血先生で、私たちが先生の最初の教え子でした。

 その頃のクラスは勉強も良くでき体も大きい子が学級委員長をする・・・その子達が、いい意味でクラスをおさめていました。
 そういうグループにわたしは、チョコンとくっついていました。

 当時、私は岩本姓(ずっとですが・・・)で、「もっち」と言われていました。

 5年生の時に突然、リーダーである学級委員長から「次はもっちを学級委員長にすることで話がついた」と宣告され
 なんと選挙の結果・・・
 予告通り学級委員長に選ばれてしまいました。

 人前で話すことなど全く経験せず・・・出来なかった私が、本当に成り行きで学級委員長にさせられてしまったのです。

 青天のへきれき・・・大きくなってから知った言葉ですが、本当にこの言葉がぴったりの出来事が我が身に降りかかってきたのです。

 その頃、給食を食べ終わった後の休憩時間に、競って運動場のドッチボールコートを取りに行くのが一種の流行りでした。
 これがどんどんエスカレートして、給食をすごく早食いをするので、体に良くないとか・・・同じクラスがいつもコートを取っている・・・などが話題となり、児童会で「ドッチボールコート利用のルールをつくるべき」との提案が学級会で出されました。

 突然、なってしまった学級委員長・・・

 クラスの意見を聞いて
 まとめて・・・
 児童会へ持っていき発表する

 それこそ
 青天のへきれき・・・そのものです

 何でやねん!・・・今なら言えますが
 その頃の私は
 否定も肯定もできず
 一番中途半ぱな状態でその児童会当日を迎えることとなりました。

 テレビやマンガなら何か起こるのでしょうが・・・

 神様が降りてきて・・・助けてくれる訳もなく
 誰かが口添えをしてくれる訳でもなく・・・

 厳しい現実

 当たり前のように、時間が刻々と迫ってきたのです。
 まさに
 最悪・・・の幕開け
 
 一生の内にこれほど
 青天のへきれきを経験したのはこれが最後ではないでしょうか・・・。
 
[PR]
# by 6570295 | 2011-09-12 22:00 | 私のあゆみ

第11回

第1章あんたはうちの子やない

<11>養子話に泣いて抵抗


 父の工場が倒産し、経済的事情が悪化したからだと思います・・・
 生活が少し安定してきた頃(中学校2年生)に養子にいく話が持ち上がりました。

 こどもが居ない遠い親戚のところへ養子に行けば、そこから高校~大学まで行かせてもらえるかもしれん。どうや?と切り出されたのです。

 小学生の頃は、学年を終えるごとに、実の母が迎えに来てくれるかもしれないと思い続け、小学校卒業時に、いよいよ迎えには来ないと悟り、ここ守口で生活していくのだと思い始めた矢先のことでした。

 突如持ち出された養子縁組の話でしたが、この時ばかりは、絶対泣かなかった私もはじめて「棄ててくれるな」と泣きました・・・
 「よその家にやらんといて。何でもいいからここにおいて」と。

 夏休みにその家に遊びに行かされていました。

 また、母と二人きりで近鉄特急に乗り・・・はじめての家。静かなおじさんとおばさん。
 2週間程過ごしたでしょうか・・・何をすることもなく・・・毎日ひとりでほとんどの時間を吉野川で過ごしました。
 まっ黒に日焼け・・・帰りはひとりで帰路に着きました。

 それからしばらくたった頃でしょうか・・・
 「養子縁組」聞きなれない言葉
 でも・・・すごく悲しい気持ちになったのです。
 それまでの人生で一番悲しかったのはこの時・・・
 今でも思い出すと涙が出ます。

 少し物事がわかりはじめ
 「ひとりで生きていく」と決意をした幼なかった時代が終わり
 「もらわれっ子」に馴れてきた・・・そんな矢先
 また
 「すてられっ子」になっていく悲しさ
 形振りかまわず泣いて訴えたのはこの時が最初で最後
 
 以後、養子の話は立ち消えになり・・・

 また・・・少し大人に近づいていくこととなります。

 ひとりで生きていく・・・簡単でないこの荒波は容赦なく襲いかかり浪間に沈めようとしてきます。
 漂うことを知らない不器用な私は、バタバタともがき・・・
 
 小さな海岸に漂流したかと思えば
 また沖合に投げ出される

 その海で
 その砂浜で
 生きていくことを探しはじめます

 14歳
 目一杯背伸びをしながら・・・
[PR]
# by 6570295 | 2011-09-05 15:45 | 私のあゆみ

第10回

第1章あんたはうちの子やない

<10>父の工場が倒産


 
 家庭の風向きが大きく変わったのは、父の工場の倒産でした。
 父が保証人になった先が倒産。
 不渡り手形を背負う形で父は工場をたたみ、
 取り引き先の小さな工場に仕事に出るようになりました。

 それから家庭の経済状況は厳しさを増していきます。  

 母は、守口市の委託を受けて
 産休明けの赤ちゃんを預かる託児所をしていました。

 父の工場の倒産の後、しばらくは託児所をがんばっていたその母も
 はじめて外に働きに行くことになりました。

 9つ上の兄、6つ上の兄、3つ上の姉・・・
 兄の進学のこともあり
 「長男やから大学にいかさんと」「でもお金はないし」といった父母の会話が聞こえ、ちょこちょこ喧嘩をしていました。 
 言い争いや喧嘩の気配を感じるたびに
 「わたしはここにおってはいけない」との思いを強くしたものです。

 中学に入学する時、私の制服の購入をめぐって、両親がいいあらそう場面がありました。
 「おさがりの制服でもいいやないか」
 「他人の子やからよけい新しい制服を買ってあげなあかんのと違うか」・・・
 といった話題が耳に入ったりしました。
 
 聞こえているけれど・・・知らん顔をして様子をうかがう・・・
 それが・・・日常となっていきます。

 結局、新しい制服を買ってもらって入学。
 毎日
 中学校から帰ったら
 洗濯をして次の日に備える・・・
 スカートは総プリーツだったので
 毎晩
 お布団の下に敷いて「寝押し」をする
 大切な大切な制服でした。

 実の母からは全く何の連絡もなく・・・

 兄や姉が卒業をした近所の中学校に入学
 当時流行っていたアニメの影響で
 テニスクラブに入部

 ラケットなどが必要になった時に「そんなものにお金をかけられへん」言われたりもしましたが
 結局は、父が買ってくれました。

 学校という居場所
 友達という人間関係
 先生という支え手

 新しい居場所がひろがり
 近所の人の手から少しずつ卒業していくこととなります。

 前野のおっちゃんは
 おばちゃんが亡くなり
 毎日のご飯を母がつくり
 私が運ぶことが日課になっていました。

 すぐ近くの
 みんなが遊んでいた中庭
 共同水道がなくなり
 スイカを冷やしていた井戸も
 周りの田んぼも
 少しずつ
 少しずつ町の並びにも変化が・・・

 大きくなっていく時の流れと
 変化していく人のつながり・・・

 私の成長と共に
 変わっていく現実がありました。

 時の移ろいは確実に現実のものとなり
 何でも話せていたこども時代

 そして
 誰もが経験する
 何も話さない自己探求の迷路へと入っていくこととなります。

 新しい居場所
 友達を求めて・・・新しい世界も広がっていくこととなります。
[PR]
# by 6570295 | 2011-08-28 20:16 | 私のあゆみ

第9回

第1章あんたはうちの子やない

<9>寂しさも徐々に薄らぐ


 小学校の3年生に進級し、少しづつ生活が落ち着いていったからか
 性格が変わっていきます。

 担任の前田先生が、長兄の担任でもあった関係で、家の事情をよくご存じだたのでしょう・・・
 とてもいい先生でした。

 そのころの私は、ひとりぼっちではなく
 集団の中でちょこんと座っている存在でした。
 積極的に何かをするでもなく・・・
 目立たない、おとなしい子・・・
 でも、常に集団の隅っこでいる
 集団の一員として
 先生の家にも遊びに行きました。

 家での、お客さんという感じは変わらず・・・
 姉からは「あんたはうちの子と違うからな」とちくちく言われていました・・・
 私は
 「本当のことやからしょうがないなぁ」と思うようになっていました。

 いろいろ言われるけれど・・・
 ご飯はちゃんと食べられるし、「おかわりは?」と聞いてくれたり・・・
 姉に遠慮して「もういいです」と言ったりしていましたが、ひもじい思いはしませんでした。

 その頃
 父は従業員数人の会社をしていたので、一応、従業員の人からは社長のお嬢さんの扱いでした。
 しかし、そのひと時もつかの間
 父は、保証人として責任をとることとなります。

 何もよくわからない・・・
 でも
 家の経済状況が変わっていくことが
 よりリアルな形で現れていくことになります。

 それでも
 少しずつ
 本当に少しずつ
 私の居場所ができはじめます。

 時の移ろいは
 人の心を溶かしていきます・・・
 そして
 そのことも
 少しずつ
 本当に少しずつ
 私も実感していくことになります。

 紆余曲折しながら・・・
[PR]
# by 6570295 | 2011-08-21 07:23 | 私のあゆみ

第8回

第1章あんたはうちの子やない

<8>近所からも優しくされ


 近所の大人の優しさにもずいぶん救われました。
 特に家の向かいの前野のおっちゃん、おばちゃんのことははっきり覚えています。
 子どもさんが居られなかったので、私のことをとっても気にかけてくれていました。
 「ちょっとおいで」といって半紙に包んだお菓子をくれたり、
 ひとりぼっちで家にいると「困ってへんか?」と声をかけてくれたりしました。

 ある日、近所の田んぼで採ってきた大量のオタマジャクシが死んでしまって
 どうしていいのか・・・と思っていると
 「大丈夫、大丈夫・・・」ときれいに始末をしてくれました。

 近所のおばちゃんも
 「一緒に畑に行こうか」とリヤカーの後ろに乗せてくれて
 連れていってくれたりしました。

 どの家にも鍵がないような時代・・・
 きっと、「あそこの家では、よそで子どもを作って連れて帰って来てるで」といったことはご近所の間で知れ渡っており、よけい優しくしてくれたのかもしれません。

 家では「あんたは、うちの子やない」と言われ、針のむしろだっただけに
 学校での先生
 近所のおっちゃん、おばちゃん達の優しさが嬉しく、救いでした。

 もちろん
 その頃の小さい私が
 「お互い様」というコミュニケーションを知ろうはずがありません。

 でも・・・
 二重にも三重にもあるコミュニケーションの輪の中で

 私はいつも「ごまめ」でしたが・・・
 異年齢のこども集団の輪の中で育っていったことはいうまでもありません。

 守口は湿地だったため
 亀やヘビがいつも居る・・・
 まだまだ田んぼや畑があったので
 根っこのついたままのお豆をもらってひきずって帰ったり
 ひとりぼっちでもひとりじゃない空間がたくさんありました。

 寂しさを感じさせるのも人
 その寂しさを埋めてくれるのも人
 
 「特別」だからこそ
 違う温もりの輪の中で
 こども時代だからこそ
 それが
 日常・・・となっていきました。
[PR]
# by 6570295 | 2011-08-15 17:44 | 私のあゆみ

第7回

第1章あんたはうちの子やない

<7>先生の優しさが救い


 守口に来て、2年生の2学期から姉と一緒に橋波(はしば)小学校に行く生活が始まりました。

 学校では、月齢が高いこともあって運動や勉強であまり困ったことはなく、
 しかられたこともありません。
 
 しかし・・・すぐに友だちができるはずもなく
 いつも担任の女の先生(佃先生)にくっついていたり
 友達と体がぶつかっただけでも、しくしく泣くような子どもでした。

 家に帰れば針のむしろ
 学校では友だちもなく
 不安の固まりのような子どもでした。

 その中で担任の先生の優しさが救いでした。
 わたしは、その先生をつなぎ止めておきたい思いからか・・・
 折り紙を折って先生にあげたり、年賀状を書いたりしていました。

 特別何かをしてくれるのではないけれど・・・
 優しいまなざしをむけてくれるこの先生が
 当時のわたしの唯一のよりどころでした。

 2年生の時のわずかな思い出
 
 でも・・・ 
 そこから
 毎年
 素敵な先生と出会うこととなります。
[PR]
# by 6570295 | 2011-08-07 16:56 | 私のあゆみ

第6回

 第1章あんたはうちの子やない

   <6>いつか迎えに来てくれる


 気持ちのどこかに
 「いつか迎えに来てくれるんやろう」
 「夏休みが終わったら迎えに来てくれるのかな」といった気持ち
 「まさか・・・もう捨てられへんわ・・・」という思いも
 抱き合わせであったような気がします。
 そんな期待が心のよりどころでした。

 守口の家では、母からも3歳上の姉からも
 「ここは、あんたの家ではない。
 うちの子やない」とさんざん言われていましたし
 私も
 「わたしのいる場所ではない」と思っていました。

 だから、「母がいつか迎えに来てくれる」という望みは、一番の心の糧でした。
 
 空を見上げ
 お月さまやお星さまをながめ
 ただ・・・
 泣くもんか
 我慢、我慢・・・と

 家の中では
 とっても強情な子

 それでも
 姉の後をくっついて遊んでもらっていました。

 誰もが
 それぞれに自分のバランスをとっている。

 嫌なことも言うし
 いけずなこともする・・・

 でも・・・
 だから・・・
 それ以上エスカレートすることもなく・・・
 こどもの殻を脱いでいくこととなります。

 私は、だんだん
 また・・・居場所に落ち着くこととなります。

 「いつ・・・迎えに来るのかなぁ・・・?」
 この気持ちは小学5、6年頃まで持ち続け
 次は、
 「小学校の卒業の時?」
 「中学校の入学かなぁ・・・。」

 毎日・・・から
 毎週へ・・・
 そして節目節目へ・・・と時間をおいていくこととなりました。
 
  しかし・・・ 
 「帰ってこない」と悟ったのはずいぶんたってから・・・
 
 中学校の時の養女へのお誘い・・・

 自分の戸籍を取り寄せ
 母の戸籍記載を確認・・・
 高校生という多感な時期

 誰もがそう・・・想うように・・・
 「なぜ?生まれてきたのか」
 「私は・・・必要な子どもだろうか?」など
 
 自分自身の哲学(^ー^)
 それを追い続けていくことに001.gifなりました。
 
[PR]
# by 6570295 | 2011-08-01 22:12 | 私のあゆみ

第5回

第1章 あんたはうちの子やない

<5>再び守口へ


 住吉に移ってからの母との新しい生活も、母になつくことはなく、母は『あんたは私のことをおばちゃんと呼ぶ』と繰り返していました。
 なんとも言えぬ目をして・・・

 それでも・・・
 やっぱり、『お母ちゃん』とは
 よう言わなかったですね・・・

 結局、なつかないまま・・・
 小学2年生の夏休みに、何も伝えられず、机とランドセル、そして私・・・
車に乗せられ、育ての親の守口に帰されたのです。

もうすぐ夏休みが終わろうとしている頃
守口の家に戻されたときは、「預けられたのかなぁ、棄てられたのかなぁ」と思いましたね。

 きっと、よくは分かっていないのですが・・・

 前は守口の母が「うちの子やないから本当の母親の所にお帰り」と送り出してくれた・・・生みの親も「自分で育てよう」という気持ちもあったでしょう。
 突然だったけれど・・・私にも事のなりゆきは伝えられていましたから・・・

 ところが
 今度は何も言わず何も聞かれずに帰された。
 守口の家に着き、運ばれた机がポツン・・・
 「縁を切ったと思っていたのにまた戻ってきた。」迷惑なんだ・・・という空気が一杯でした。

 守口へ有無を言わさず送り返された・・・夏休みが終わる頃、また住吉に連れて行かれるのだろうか・・・不安とも期待ともつかぬ妙な毎日。

 でも・・・「あんたは、ここの家の子やないのに・・・」その言葉の繰り返しの中で
 「これはもう実の母親から棄てられたんだ」と思いましたね・・・

 それでも
 「迎えに来るかも・・・」という淡い期待

 おばちゃんとしか呼べない母

 お母ちゃんとしか言えないのに言ってはならないと思い込もうとしている自分

 自分の居場所が見つけられないまま
 振り出しにもどってしまった1年半・・・

 でも・・・
 それは振り出しではなく
 新しい居場所探しのスタートでした。

 こどもなりの遠慮と生きていくすべ
 誰から教えられるわけでない・・・

 大きな広い海原に漂っていくことになります・・・
 「迎えに来てくれるかもわからない」
 ほんのわずかな「居場所(親元)」への想い・願いを浮き輪にして・・・

 結局
 かなわぬこと・・・と理解するまで
 長い長い月日を重ねていくこととなります。

 明日への期待
 これがあるから・・・時を紡いでいけたのかもわかりません。 
 
[PR]
# by 6570295 | 2011-07-24 15:29 | 私のあゆみ